相続と短歌(後編)
今回も前回に続いて短歌について相続との関連を考えたいと思います。 短歌が空前の大ブームでテレビでも取り上げられていた2023年、弁護士で歌人の竹内亮さんとYouTubeで共演させていただきました。竹内さんは相続専門弁護士の傍ら、歌集「タルト・タタンと炭酸水」を出版されたり、24年には現代短歌評論賞も受賞されたりと、歌人としても大活躍しています。
今回はその竹内さんがYouTube内でご紹介した以下の相続的な短歌について解説したいと思います。
遺産なき母が唯一のものとして残しゆく「死」を子らは受取れ
中城ふみ子『花の原型』(1955年)
このお母さま、「遺産なき」ということは目に見えるお金としての財産はあまりお持ちでなかったのだと思われます。ただ、財産があまりなくても、立派に生きて子供を育てたというプライドは大きいものだったと思われます。受け取れる遺産は「死」そのものしかなくても、子供たちが人生の糧と感じるはず、感じろ。そんな「母」の強い思いを感じます。
さて、この「母」という存在ですが、相続においてはキーパーソンとなりやすいです。子供たちが遺産の分割をめぐってモメたとしても、「母」が「いい加減もう喧嘩なんかするんでない!」と一喝して収めるシーンは実務でもよく遭遇します。家庭でも「母」は中心人物になりやすく、子にとっ ては赤ん坊の時にへその緒で繋がっていたかけがえのない存在です。
フランス人作家カミュの『異邦人』では、冒頭「今日ママン(母)が死んだ」という一文で始まります。その後、主人公は殺人を犯してしまい、「太陽のせいだ」と叫んでいくという非常に不条理な物語です。なぜ主人公はこんなことになったのでしょうか? その原因は人間にとってかつてへその緒で繋がっていた唯一の連続的な象徴である「母」が亡くなって孤独になったから、と言われています。それくらい「母」は人間にとって重要なのだと思うのです。
この歌の「子ら」も母の死によって深い悲しみに暮れ、大きな孤独を感じたと思います。我々のような士業は、「母」の遺産について目に見えるお金という「勘定」に気を配りますが、この「子ら」は「勘定」なぞはどうでもよく、「死」というものしか受け取れないくらい「感情」的になっている、そんなふうにも読めます。「勘定」より「感情」に配慮する事例として、まさに相続的な短歌と言えるでしょう。
YouTubeチャンネル「相続と文学」では今回の論点をより詳細に解説しています。今後もこのような相続を中心テーマとして描いている文学作品について、取り上げていきたいと思いますので、ご感想やご意見をYouTube等でコメントとして頂けると幸いです。