シェイクスピア「リア王」と相続(非嫡出子)
前回も取り上げたシェイクスピアの『リア王』では、エドマンドという強烈な個性のキャラクターが登場します。リア王の家来グロスター伯爵の子供ですが、正式な配偶者との子供ではなく、法律的に言えば「非嫡出子」にあたります。2024年春のショーン・ホームズ演出の舞台では、NHK大河ドラマ『光る君へ』の藤原道兼役によって人気絶頂の玉置玲央さんがこのエドマンドを見事に怪演し、話題をさらいました。
「非嫡出子」は「嫡出子」に比べて正式な法律による結婚に則って授かった子供ではないということで差別的な扱いを受けてしまいやすい立場です。このエドマンドも同様で、正式な配偶者との子供、つまり「嫡出子」である異母兄エドガーに比べて、父親からもひどい扱いをされてしまいます。そこで復讐を企て、巧みにリア王を操り、兄エドガーを貶めたり、リア王の長女や二女に取り入りながら王の地位を掠奪しようとしますが、最後は兄と死闘を繰り広げ破滅します。
差別は復讐を生むし、憲法14条1項で定められた「法の下の平等」も脅かされるため、民法でもつい最近、非嫡出子の相続分についての改正がされました。長らく900条4号ただし書きでは、法律婚重視の考えもあり、「嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の2分の1」という前段が継続されてきましたが、子にとっては非嫡出子の立場を自ら選んで修正する余地がないということから、個人の権限を尊重し、平成25年改正でこの前段が削除されました。これでようやく非嫡出子と嫡出子の相続分が同等になり、平等になったわけです。
さて、なぜシェイクスピアはこうした非嫡出子のエピソードを『リア王』に取り入れたのでしょうか? 関心を引きやすい人間の平等性について、ただ訴えたかっただけでしょうか? 確かにそれがゼロではないでしょう。しかし、あくまで私見ですが、それ以上にこの『リア王』をより相続のテーマを中心に据えた相続の文学にしたかったからだと思われます。
前回は三姉妹の末っ子三女がリア王の質問に「何も」と答えたところから悲劇が始まった話をしました。現代の相続にも通じる、「勘定より感情」が大事であることが分かる象徴的なエピソードです。それとともにこの「非嫡出子」という立場に対する差別的な偏見と復讐が生む悲劇も、家族とアトツギと感情が絡み合う点で非常に相続的な論点です。シェイクスピアが執筆前にお父さんの相続を経験していたこととも関係していると思われます。
YouTubeチャンネル「相続と文学」でも今回の論点を解説しています。今後もこのような相続を中心テーマとして描いている文学作品について、取り上げていきたいと思いますので、ご感想やご意見をYouTube等でコメントとして頂けると幸いです。