コラム

第6回カラマーゾフもモメない相続は可能か?

カテゴリ 文学で学ぶ相続の知恵
公開日 2025年06月09日
最終更新日 2025年06月09日

 

この連載は、私が大学・大学院時代に研究した「文学」を素材に、実務の現場で活かせる「相続の知恵」を掘り下げています。第6回目は『カラマーゾフの兄弟』。19世紀ロシア文学の巨匠ドストエフスキーによる長編小説です。 世界文学史上最大の傑作として評価され、現代でも人気の高い作品です(翻訳も多く、今回は光文社古典新訳文庫も参考にしました)。 有名YouTuberにも多く取り上げられ、私のYouTubeチャンネル「相続と文学」でも紹介しています。

カラマるあらすじ

まずは簡単なあらすじを紹介します(未読の方はネタバレにご注意ください)。

⑴ 成金で好色な父フョードルと、激情型の長男ドミートリイは将来の遺産や愛人グルーシェンカを巡って激しく対立。信仰心厚い三男アリョーシャと無神論者の次男イヴァンを含む三兄弟は、高僧ゾシマの導きで一堂に会すも、家族の亀裂は修復できず、対立が深まる。

⑵ やがてフョードルが殺され、かねてから殺意をほのめかしていたドミートリイが逮捕される。しかし真犯人は、父に恨みを抱くフョードルの非嫡出子であり、家の使用人でもあるスメルジャコフ。彼はイヴァンの無神論的思想の影響を受け、犯行に及ぶ。

⑶ 裁判ではイヴァンの告白もむなしく、ドミートリイに有罪判決。シベリア流刑が決まる。病に倒れたイヴァンや、アリョーシャに影響を受けた少年たちの姿を通じて、信仰、愛、赦し、そして人間の苦悩と希望が描かれる。

いかがでしょう? だいぶシンプルに書きましたが、実際は小見出しどおりいろんな筋が見事に絡まります。単純な父殺しの殺人事件を扱った推理小説では決してなく、「神はいるのか?」「信仰と理性は共存できるのか」といった重厚なテーマが通奏低音として響きます。そして、実は「相続」や「家族」という視点から見ても、非常に現代的な問いを私たちに投げかけているのです。

非嫡出子としての復讐

あらすじをご覧いただいた皆様はお気づきのとおり、父殺しの真犯人であるスメルジャコフ、なんと非嫡出子です。この連載を継続してお読みいただいている皆様としては「『リア王』『嵐が丘』に続いてまたか!」と驚きのことでしょう。かく言う私も執筆しながら「またか!」と呟いたばかりで、小見出しのタイトルも悩んだ末、前回の『嵐が丘』編と同一にしたほどです(決して手を抜いたわけではありません)。

スメルジャコフの母は町の乞食女で神がかり行者と言われたリザヴェータ・スメルジャチシャヤ。彼女は知的障がいを抱えており、カラマーゾフ家の風呂場でスメルジャコフを出産した直後に亡くなります。父がフョードルであることは、町の人々や三兄弟、本人も薄々理解しており、フョードル自身も否定しないという「公然の秘密」として存在していました。

そのような背景を持つスメルジャコフは、成人後にカラマーゾフ家に使用人として仕えながらも、嫡出子たちとの扱いの差に常に屈辱を感じていました。実の母も義理の母もおらず、だれからの保護もないそんな孤独と不遇が、やがて父殺しという破壊的な衝動を呼び起こします。これは『リア王』『女系家族』『犬神家の一族』『嵐が丘』でも繰り返し描かれてきた、非嫡出子による復讐のパターンとよく似ています。

なお、日本においても非嫡出子に対する法的な相続差別が撤廃されたのは2013年、民法900条の改正によってでした。法定相続分が平等になっても、現実の相続の場面では感情面の差別や対立はなお根深く残っているように感じます。

では、どうすればスメルジャコフのような「恨みの相続」が起こらずにすんだのでしょうか?。

親が見てなければ何してもいい?

スメルジャコフは「神は存在しないのであれば、何をしても許される」という思想を持っていました。これは、次男イヴァンが傾倒していた当時のロシアに広がっていた西洋的合理主義に基づく無神論(神の存在を否定する立場)に強く影響されたものです。

その思想のもと、スメルジャコフは自分の不遇な境遇をつくった父フョードルを殺害し、イヴァンに犯行をほのめかすことで共犯意識を植えつけ、自らは自害します。イヴァンはやがて自分が殺したかのような錯覚に陥り、深い罪の意識に苦しむのです。

では、もしスメルジャコフが神の存在を信じていたら――「殺人は神の目に見られている」という意識がブレーキとなり、犯行に至らなかった可能性は十分にあるでしょう。

実はこの「神が見ているかどうか」という感覚は、相続実務でも非常に似た構造を持っています。特に両親ともに亡くなった後の「二次相続」では、この「神」が「親」に置き換わるのです。子どものころ、悪さをしようとしたときに「親が見てなければ大丈夫」と思ったことはないでしょうか? あの心理が、大人になっても顔を出すことがあります。相続の場面でも、「親がいないから何をしても(言っても)いい」と感じてしまう方は意外と多いのです。

例えば、「姉はずるい、私のほうがずっと不遇だったのだから、財産は多くもらって当然」と訴える妹。「弟はいつも甘やかされて放蕩ばかり。家のことには無関心だったのに、主張だけは強くて許せない」と言う姉。そうした感情が積み重なり、遺産分割協議が泥沼化することも少なくありません。

だからこそ重要なのは、「優遇された側」が「不遇と感じている側」に対して若いうちから気を配ることです。自慢を控え、お祝い事には贈り物を厚めにする。連絡をこまめにとり、家族行事の幹事などの「面倒なこと」を引き受ける。理解されなくても感情的にならず、誠意をもって向き合う――。そうした日々の積み重ねが、「争族」を防ぐ最大の備えになるように感じます。

母もいない?

殺人や裁判といった修羅場が続いた『カラマーゾフの兄弟』ですが、最後には「赦し合い,愛し合うこと」への希望が提示されます。その役割を担っているのが、三男のアリョーシャです。これまでの連載でもお伝えしてきましたが、相続が揉める場面では,しばしば「母」が調整役として機能しています。

この物語には実際の「母」は登場しませんが、アリョーシャがその「母の役割」を引き受けています。利他の精神を体現し、周囲を癒やす存在――まさに家族の調和をつくる「母性的なもの」と言えるでしょう。 われわれ士業も、アリョーシャのように、相続の場面で家族の心をつなぐコーディネーターで「アリ」たいものです。

※本内容は「税務弘報 2025年6月号」に掲載されています。