コラム

第5回嵐を鎮めるのは 「母」 ?

カテゴリ 文学で学ぶ相続の知恵
公開日 2025年05月26日
最終更新日 2025年05月26日

 

この連載は、私が大学・大学院時代に研究した「文学」を素材に、私の専門実務である「相続」における知恵について学ぶ、という内容です。第5回目は『嵐が丘』。19世紀イギリスの文学界の巨匠エミリー・ブロンテの長編小説です。映画化作品は多数、私の専攻であった20世紀フランス作家のバタイユも『文学と悪』という論文で絶賛している傑作です。YouTube「相続と文学」でも最近取り上げました。

あらすじが丘

まずは簡単なあらすじを紹介します。

⑴ イギリスのヨークシャー地方の荒涼とした土地に聳える屋敷「嵐が丘」が舞台。ヒースクリフという孤児が「嵐が丘」に住むアーンショー家に拾われる。彼はその家の娘キャサリンと深い愛情で結ばれるものの、その兄のヒンドリーからひどく虐められる。また、成人したキャサリンは家の将来を考え、富裕なリントン家の息子エドガーと結婚し、ヒースクリフはショックで行方をくらます。

⑵ 数年後、ヒースクリフは謎の財を築き、裕福な紳士として「嵐が丘」に帰還。彼は冷酷な策略を巡らせ、過去に自分を蔑んだヒンドリーたちに復讐を開始。

⑶ さらにはアーンショー家とリントン家の財産を自分の息子とキャサリンの娘の結婚や相続を利用して巧みに奪い取り、最終的に、「嵐が丘」と「スラッシュクロス」という2つの屋敷を手中に収めるものの、人生に満足することなく亡くなる。

いかがでしょう? 単なる復讐劇のように見られがちかと思います。しかし復讐だけではありません。『嵐が丘』は、財産と愛、階級の問題を絡め、人間の欲望と執着を形式的な工夫を交えて描いた傑作です。そして何より相続の本質を突いていて、実は現代の揉めている相続問題を解決できるヒントがたくさんあると思っています。今回はその理由をお示しします。

非嫡出子としての復讐

ヒースクリフは孤児であり、非嫡出子とは書かれていません。しかしこの連載の『リア王』『女系家族』『犬神家の一族』での非嫡出子と同様、差別を受ける存在として描かれ、しかも何かしらの復讐を果たすという点で共通性があり、非嫡出子的存在として見てよさそうです。

歴史的に見て、非嫡出子は差別的扱いを受けてきました。日本でも民法で非嫡出子との法定相続分における差別が撤廃されたのは2013年でした(民法900条4号ただし書きから「嫡出でない子の相続分は、嫡出である子の相続分の2分の1とし」が削除されました)。

しかし法定相続分として平等になっても現代の相続において感情面における差別的扱いはなくなっていないように感じます。ヒースクリフも、嫡出子のヒンドリーのみならず、愛し合うキャサリンまでも体裁を気にして半ば裏切られてしまいます。唯一の理解者であり孤児としての自分を養う決心をしてくれたお父さんが正式に養子にして育てる前に亡くなってしまったのも非常に痛かったわけです。どうすればこの恨み深い復讐が起こらなかったのでしょう?

許す心・譲る心

相続の遺産分割協議の現場でも「兄貴はずるい。幼いころから長男ということでいつも新しいものを買ってもらっていたし、俺はいつもお古。教育もお金も優遇されてきた」「末っ子のくせに後継者だからという理由で贔屓されているのは許せない」といった感情的な発言が飛び交うことがしばしばあります。そういったことを言われる側も許せなくなり、泥沼になることもあります。

この場合、世間的に見て優遇されている人が不遇と思いがちな人に若い時から配慮することが大事です。留学や学校自慢をしない、お祝い事に贈り物を多めにする、コミュニケーションをとり手間を惜しまず面倒なことをやる、家族行事の幹事を積極的にやる、理解されなくても感情的に怒らない、などです。

嫡出子のヒンドリーも、ヒンドリーの父の愛を獲得したヒースクリフも、どちらも優遇されている状況であるため、お互いの譲り合いが本来は必要でした。

許しや譲りは母で決まる?

さて、そうはいっても許す心・譲る心を持つことは非常に難しいです。いざ相続の現場では家族が亡くなりただでさえ精神的に堪えている中、諸々の手続の期限が決まっていることもあり感情的になりやすく、特に若い時は人生経験も未熟で理性的になれないものです。

このような時に強いのは「母」です。父が亡くなって母と子が相続人となる場合、子供同士が揉めてしまっても母の鶴の一声でうまく喧嘩がまとまるのです。そんなシーンを私は何度も実務を通して体験してきました。

『嵐が丘』では「母」の存在が不在です。アーンショー家もリントン家も早くに亡くなるなど、あまり詳細に描かれていないのです。これはこの連載で取り上げた『リア王』『女系家族』『犬神家の一族』でもそうでした。

おそらくこれらの作品の作者はみな「母」が相続や承継においてキーパーソンになることを知っていると思われます。だからこそあえて、母を登場させないように描き、そして揉めさせるようにしたのでしょう。

エミリーにも母は不在

ではなぜ「母」がいると揉めないのか? 揉めてもなぜ諫めることができるのでしょうか?

1つには家の実質的な大黒柱だからです。現代では異なることも多いですが、長らく「母」は家にいることが誰よりも多い存在でした。その分家族のそれぞれの個性、父子の関係、家計や家の事情に一番精通している存在です。子供がまだ幼い頃に繰り返してきたきょうだい喧嘩を常に諫めてきているのも大きいです。

もう1つは「母」が持つ優しさです。子はかつてへその緒で繋がっていた存在。不公平があればすぐにバランスをとるコミュニケーションの巧みさが母にはあるものです。

『嵐が丘』の作者エミリー・ブロンテの母は彼女が幼い頃に亡くなってしまいました。母がいないことで家族がともすれば不安定になりやすいので、お互いの助け合い・譲り合いが必要であると身をもって知っていたように感じます。

主人公であるヒースクリフも孤児のため本当の「母」は不在、養親の母も不在、なので復讐の暴走が止まらなくなるのですが、そんな彼も亡くなる寸前に愛するキャサリンの亡霊を見ます。最後にようやく「母」を見出し救われます。「母」が不在な場合でも,「母」的存在(士業?)を見つけて許しあう行動が必要なのだと思います。

※本内容は「税務弘報 2025年5月号」に掲載されています。